さくら貝の歌

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さくら貝の歌

「さくら貝の歌」は日本がまだ戦争のさなかにあった1939年、昭和14年の
秋に誕生しました。
作曲家を志していた北海道の青年、鈴木義光のちの八州秀章。
彼はある女性に恋心を抱いていました。
しかし彼女は胸を病んで十八の若さで亡くなりました。
それは彼が作曲家を志し北海道から上京する直前のことでした。







八州秀章は開拓民の次男として北海道で生まれました。。
幼いころから詩歌への造詣が深く、ゲーテやバイロン、ハイネ、
土井晩翠などの詩を読みふけっていたといいます。


後に鎌倉の由比ヶ浜の近くに移り住んだ八州は、亡くなった恋人を
さくら貝に見立てて短歌を作りました。
「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」
この短歌をもとに、彼の友人である、当時逗子町役場職員だった
土屋花情が歌詞を作ったということです。



後にペンネーム八州秀章を名乗った彼、鈴木義光ですが
このペンネームには特別な意味がありました。
思いを寄せながらも、病で亡くなったこの女性は八重子という名前でした。
この「八重子」から一文字の「八」、そして亡くなった後の彼女の法名、
「誓願院釈秀満大九姉」からさらに「秀」の一文字を借りました。
作曲家を目指していた彼はこの詩歌に音曲を与え、それが後に
「さくら貝の歌」となりました。
こうして誕生したこの歌ですが、しばらく日の目を見ることはありませんでした。



しかしそれを大きく変える出来事が起こります。
「待ちぼうけ」などで知られる偉大なる音楽家、山田耕作がこの曲を気に入って
1949年、昭和24年にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されることになりました。
このときの反響は非常に大きく、一躍社会現象ともなり、無名の曲だった
「さくら貝の歌」は一転、子どもたちださえ口ずさむほど多くの人たちから
人気を集めるまでになtったのです。


当時の山田耕作は弟子を持たないとされていましたが、何か思うところがあったのか
八州を弟子として受け入れました。
持ち前の温かい人柄や清い精神がよかったのかもしれません。
「ラジオ歌謡」で流れた「さくら貝の歌」は山田耕作が手直しの再編集を加えたとも
いわれています。



後の1954年、昭和34年には第一回レコード大賞の童謡賞を受賞。
まだ音楽作品の商業主義化とは無縁な時代の中での快挙といえます。
彼は1985年、昭和60年12月に70歳で亡くなりましたが、その後の平成3年には
功績をたたえて逗子市の公園に「さくら貝の歌」の歌碑が建立されました。


さくら貝の歌 歌詞

一番
美わしきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ

二番
ほのぼのとうす紅染むるは
わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろと通う香りは
きみ恋うる胸のさざなみ
ああ なれど わが思いははかなく
うつし世の渚に果てぬ



【中古】さくら貝の歌 八洲秀章の生涯


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