どじょうすくいで有名な安来節

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どじょうすくいで有名な安来節

どじょうすくい


安来千軒名の出た所 社日桜に十神山
出雲旅路で安来のまちは 忘れられない唄どころ
何はなくとも出雲へござりゃ 心尽くしの安来節
出雲名物荷物にならぬ 聞いてお帰れ安来節





江戸時代の末期にその原型ができたと言われる安来節。
春の花見シーズンに開催される「お糸まつり」という名は
安来節の知名度を全国区のものとした
渡部お糸を称えたものだといいます。
この安来節と切っても切れない関係にある
どじょうすくい踊りと共に
その歴史の深さとルーツを探ってみましょう。


安来節の起源は、今から三百年余り前、
まだ明治維新前の江戸時代のさなかのことです。
時は元禄太平の世、ちまたでは大衆文化が花開き
歌舞音曲の流行華やかなりし頃でありました。
その頃の、出雲の国の安来の郷はというと
波静かなる中海に面した天然の良港。
ここでは奥出雲地方で採れた米や砂鉄を搬出するため
物資の集散地そして山陰地方の一大主要拠点として
大いなる繁栄をきわめていました。


その頃はは全国津々浦々を巡る北前舟等の寄港も少なくなく
船乗りの出入りは激しいかったようで
彼らを通じて一娯楽としての民謡の交流も盛んでした。
「佐渡おけさ」「追分節」等々の民謡がよく歌われていたことが
当時の記録から分かっています。




そんな折、船乗達で賑わう安来の花街には
「おさん」という美声の芸妓がおり、
これらの民謡をベースに自分でアレンジいたしたものを
「おさん節」と称して節回し面白く歌っていたものが
今日の安来節の原形だといわれています。


文明開化の明治になって
安来の郷の研究熱心な人々の手によって
「おさん節」に研鑽労苦が重ねられて
未完成であった安来節の姿が徐々に
整えられていきます。
そうしてこの安来節は出雲地方で大流行しました。
さらに明治44年には正調安来節保存会が創設。
名実共に安来節を不動のものにしました。




そして大正時代に入りのちの安来の名誉市民となる
「渡部お糸」という芸達者な女性が
三味線の名人「富田徳之助」と共に一座を組み全国巡業。
その際に、行く先々で大好評を博した結果、
一介の地方民謡だった安来節は全国区の地位にまで
押し上げられるることとなりました。
そしてついには、当時の芸能人の憧れの的であった
東京鈴本亭の舞台に立ち、大衆芸を芸術の域にまで高めました。


お糸一座の活躍はまだまだ止まるところを知りませんでした。
東京・大阪に安来節の上演専門館まで誕生させるのみならず
朝鮮半島・台湾・中国東北地方にまで遠征し巡業。
日本だけでなくアジアにも安来節を広めました。





そしてなんといってもこの安来節と共に生きてきたのが
皆様お馴染みの「どじょうすくい踊り」。
「あら、えっさっさ~」の掛け声とともに始まる
この踊りの由来は江戸時代末期にまでさかのぼります。


いつの時代でも「のんべえ」はいたもので
それは安来の郷とて例外ではありません。
ある日のこと、ドブロク徳利を後生大事に抱えた
「のんべえ」達が近くの小川で捕ってきた泥鰌を肴に
いつもの酒盛りを始めました。
そんな時、ほろ酔い気分も手伝ってか
その泥鰌を掬う仕草を安来節に合わせて
即興的に踊ったのがその始まりだといわれています。


初めは野良着姿の野暮ったい
「どじょうすくい」踊りでしたが、長い歳月を経て
リズミカルに形作られていきました。
そしてお糸一座の活躍とも相まって、次第に宴席をはじめとする
大衆の生活の中に溶け込んでいきました。
今では「安来節」と言えば「どじょうすくい」を連想されるくらい
切っても切れない、一心同体の間柄になっています。


全国にその名を知られ多くのファンを持つ「安来節」。
それは、安来の人々が育んできた暮らしの唄です。
歴史の変遷を経て来た現在の安来市に
その軽快なリズムが流れるとき、
米や砂鉄の積み出し港として賑わった
往時のたたずまいを偲ぶことができることでしょう。


今日から踊れる!! どじょうすくい 安来節


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