日本の歌

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芸者ワルツ





芸者ワルツ
西條八十 作詞
古賀政男 作曲


あなたのリードで 島田もゆれる
チーク・ダンスの なやましさ
みだれる裾も はずかしうれし
芸者ワルツは 思いでワルツ


空には三日月 お座敷帰り
恋に重たい 舞い扇
逢わなきゃよかった 今夜のあなた
これが苦労の はじめでしょうか


あなたのお顔を 見たうれしさに
呑んだら酔ったわ 踊ったわ
今夜はせめて 介抱してね
どうせ一緒にゃ くらせぬ身体


気強くあきらめ 帰した夜は
更けて涙の 通り雨
遠く泣いてる 新内流し
恋の辛さが 身にしみるのよ







映画にもなった芸者ワルツ
原作は大林清である。
脚本家は「チョイト姐さん思い出柳」などで知られる笠原良三。
監督は「決戦高田の馬場」の渡辺邦男。
作品の撮影に携わったのは
「はだか大名 (前篇)」
「はだか大名 (後篇)」の渡辺孝。


おもな出演者は
「若き日のあやまち」の相馬千恵子、
「遊侠一代」の田崎潤と野上千鶴子、
「娘十九はまだ純情よ」の高田稔と柳家金語楼、
「ボート8人娘」の龍崎一郎などに、
神楽坂はん子、ニュウ・フェースの
久保菜穂子と藤京子などがいる。




あらすじ
かつての華族の末裔で資産家の令嬢だった
朝吹千枝子。
そんなお金持ち一家の娘だった彼女だが
戦時の大恐慌がたたって一家は
戦後すっかり財産を失ってしまう。
そんな絶望の底にある一家を支えるため
彼女は実は芸者になっていたのだ。
女事務員、今で言うOLをしているとうそをついていた。
病床にある父をはじめ家族はそれを知るよしもない。




そんなある日のこと、六郷商事の社長
就任披露の宴会に招ばれた千枝子。
彼女は栄龍、はん子、つばめ、照代など
僚友とともに箱根の「青嵐荘」へ行く。
寄寓にもなんとこの家、千枝子の父が
戦前に持っていた別荘だったのだ。
しかも当日就任の社長六郷恭造は
その昔朝吹家へ仕えていた
出入りの車曳きだったのだ。




彼の息子信太郎は戦後の新興実業家。
彼は親孝行をするかのごとく
父である恭造を社長につかせたのだった。
千枝子はこの時信太郎と親しくなり
その後恭造が悪辣な同業の山崎の口車に
乗せられそうになったとき、千枝子がそれを救う。




この件がきっかけで信太郎と千枝子のふたりは
急速に親しくなっていく。
恭造は息子信太郎が千枝子との結婚を
熱望していると知り、
旧主家への礼儀から
昔の車曳きの姿に変化する。
さらに六郷商事のほとんど全財産の金を投げ打って
「金一封」として千枝子の父、誠通の病床に捧げる。




このことは六郷商事では財産紛失事件として
大きな騒動となる。
しかし千枝子は小切手を返しに行きことなきを得る。
されに一時は恭造の行為を誤解した病身の誠通も
千枝子と信太郎の愛情を理解することができた。
こうして朝吹一家にようやく久しぶりの春が訪れたのである。




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四季の雨

こころに響く日本の歌 5号 故郷(ふるさと)


日本という国は大政奉還、王政復古の大号令によって
数百年に渡って続いた武将たちの統治する政治体制と決別しました。
この明治維新によって文明開化を成し遂げた日本は「モダン」で
「ハイカラ」な西洋風の文化を取り込みながら、一気に近代国家建設としての
歩を進めることになります。
そこから100年あまりが過ぎた、現在平成の日本。
二度の大戦争の悲劇からの奇跡ともいえる復興。
その一方で高度の成長の末の成熟した文化に
味気なさを感じることは少なからずあるのではないでしょうか。


「明治は遠くにならにけり」の風潮が日増しに強くなる反面、異国、異文化への
祖国の開放を経て、新しい国家、そして文明の構築に猪突猛進だった
あの激動の時代や数々の勇士たちをも再評価する風潮、機運がいまだかつてないほど
高まりつつあるように感じられなくはありません。
いわば日本を代表する歌ともいえる唱歌。
近代日本を語る上でその果たす役割は小さくありません。
明治維新から戦前にまでに生まれた、いわゆる文部省唱歌。
今回取り上げる「四季の雨」もそのひとつです。





日本という国は小さな島国である反面、四季の移り変わりというほどに
季節ごとの変化がはっきりしています。
こういった雄大で多種多様な自然の影響からか、われわれ日本人の感性は
ほかの国々のそれとは明らかに違った、繊細かつ細かなものへと長い月日を経て
変化と成長を成し遂げてきたものです。
四季、友情、歴史上の人物、動物、式典といった日々のあらゆる出来事が
古きよき思い出となり、後に人生全般の教えにもなったはずです。
幼いころの色鮮やかな体験は成人してからも懐かしく振り返ることができるでしょう。
このように伝統的な音楽は情操教育の一環を成してきたといっても過言ではありません。
今日びの小学校など、教育の現場では必ずしもこれが保たれてはいません。
文部省唱歌なんてどこ吹く風といった風潮は少なからずあることでしょう。



その反面、アイドル歌手の軽い感じの流行曲や携帯電話やテレビゲームなどの
軽く無秩序な曲ばかりがおもしろいものとしてもてはやされている感じすら受けます。
そんな現代において古の人に思いをはせ、清らかな気分になって旧来の唱歌を
清聴しときには口ずさんでみる。
ときにはそんな一日があってもよいのかもしれません。



四季の雨    文部省唱歌

降るとも見えじ春の雨  水に輪をかく波なくば
けぶるとばかり思わせて 降るとも見えじ春の雨

俄かに過ぐる夏の雨  物干し竿に白露を
名残りとしばし走らせて  俄かに過ぐる夏の雨

おりおりそそぐ秋の雨  木の葉木の実を野に山に
色様々に染めなして  おりおりそそぐ秋の雨

聞くだに寒き冬の雨  窓の小笹にさやさやと
更行く夜半をおとずれて  聞くだに寒き冬の雨


春よゆるやかに暖の戻ってくるこの季節雨は見えることもなく
水面に交錯する円の舞踏もなくただ静かに、ここに訪れているのか

優しき季節よ生命の気配は大気に満ちすべてはその輪郭を失い
いまここに雨は訪れているのかそれすら見えぬ私に、静謐なる雨は


夏よ熱は大気に満ち雨は走り一気にこの身体を濡らしていく
駆け抜けていく光のかがやきよ、残像は人の営為とともにあるのか

いま陽光の中にしずくはかがやき、光の子どもたちの笑顔と歌
この日々を洗い一気に駆け抜けていくきみの証はいつでも光とともに


秋よ熱も遠ざかり陽炎も遠ざかり宴は遠ざかって行くのか
木の葉の色彩よそうして実りよ豊かさがそこに取り残されるのか

熱の遠ざかる中なにも失われはしないことを雨が明らかにする
雨は色彩を実りを洗い残されたものをくり返しあきらかにしていく


冬よ生命の気配は見えぬ場所に隠れ冷えた深夜の大気の闇
冷えた窓その外部との境界から笹の葉の音が聞こえてくる

雨が降っているのだ冷えた深夜光なきこの時間帯にひびく雨音
雨が訪れているのだ隠れる生命に語りかけるかのように冬の雨が




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われは海の子





明治から戦時中にかけて多数発表された、文部省唱歌のひとつである
「われは海の子」。
この曲は後世に語り継ぐべし曲と認められたのか2007年、平成19年に
日本の歌百選に選出されました。



この曲が初めて日の目を見たのが1910年、明治43年に発行された当時の
音楽の教科書である「文部省尋常小学読本唱歌」の上でのことです。
曲名については「われは海の子」と「我は海の子」のふたつの表記があるようです。
長年作詞者、作曲者ともに不詳とされてきましたが
それぞれの親族の証言などから、宮原晃一郎説、芳賀矢一説の二つがあるようです。
また、これとは別に原案が宮原で、後に芳賀による改作説もあるとのことです。



この「われは海の子」は発表されたのは軍国主義で戦争のさなかにあった
旧大日本帝国が怖いもの知らずのイケイケムードにあった時代のことです。
現在では小学校など公の場では3番までしか教えられていないということですが、
もともと7番まであった歌詞は戦争を連想させるということで
戦後GHQの検閲で削除された背景があります。
後の2007年、平成19年はほかの文部省唱歌などとともに「日本の歌百選」に
選出されました。


われは海の子 歌詞 一番から三番まで


一番
我は海の子白浪(しらなみ)の
さわぐいそべの松原に
煙(けむり)たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ

二番
生れてしおに浴(ゆあみ)して
浪(なみ)を子守の歌と聞き
千里(せんり)寄せくる海の気(き)を
吸(す)いてわらべとなりにけり

三番
高く鼻つくいその香(か)に
不断(ふだん)の花のかおりあり
なぎさの松に吹く風を
いみじき楽(がく)と我は聞く


みんなのどうよう われは海の子〜みんなでうたううた〜


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さくら貝の歌

「さくら貝の歌」は日本がまだ戦争のさなかにあった1939年、昭和14年の
秋に誕生しました。
作曲家を志していた北海道の青年、鈴木義光のちの八州秀章。
彼はある女性に恋心を抱いていました。
しかし彼女は胸を病んで十八の若さで亡くなりました。
それは彼が作曲家を志し北海道から上京する直前のことでした。







八州秀章は開拓民の次男として北海道で生まれました。。
幼いころから詩歌への造詣が深く、ゲーテやバイロン、ハイネ、
土井晩翠などの詩を読みふけっていたといいます。


後に鎌倉の由比ヶ浜の近くに移り住んだ八州は、亡くなった恋人を
さくら貝に見立てて短歌を作りました。
「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」
この短歌をもとに、彼の友人である、当時逗子町役場職員だった
土屋花情が歌詞を作ったということです。



後にペンネーム八州秀章を名乗った彼、鈴木義光ですが
このペンネームには特別な意味がありました。
思いを寄せながらも、病で亡くなったこの女性は八重子という名前でした。
この「八重子」から一文字の「八」、そして亡くなった後の彼女の法名、
「誓願院釈秀満大九姉」からさらに「秀」の一文字を借りました。
作曲家を目指していた彼はこの詩歌に音曲を与え、それが後に
「さくら貝の歌」となりました。
こうして誕生したこの歌ですが、しばらく日の目を見ることはありませんでした。



しかしそれを大きく変える出来事が起こります。
「待ちぼうけ」などで知られる偉大なる音楽家、山田耕作がこの曲を気に入って
1949年、昭和24年にNHKの「ラジオ歌謡」として放送されることになりました。
このときの反響は非常に大きく、一躍社会現象ともなり、無名の曲だった
「さくら貝の歌」は一転、子どもたちださえ口ずさむほど多くの人たちから
人気を集めるまでになtったのです。


当時の山田耕作は弟子を持たないとされていましたが、何か思うところがあったのか
八州を弟子として受け入れました。
持ち前の温かい人柄や清い精神がよかったのかもしれません。
「ラジオ歌謡」で流れた「さくら貝の歌」は山田耕作が手直しの再編集を加えたとも
いわれています。



後の1954年、昭和34年には第一回レコード大賞の童謡賞を受賞。
まだ音楽作品の商業主義化とは無縁な時代の中での快挙といえます。
彼は1985年、昭和60年12月に70歳で亡くなりましたが、その後の平成3年には
功績をたたえて逗子市の公園に「さくら貝の歌」の歌碑が建立されました。


さくら貝の歌 歌詞

一番
美わしきさくら貝ひとつ
去りゆけるきみに捧げん
この貝は去年(こぞ)の浜辺に
われひとりひろいし貝よ

二番
ほのぼのとうす紅染むるは
わが燃ゆるさみし血潮よ
はろばろと通う香りは
きみ恋うる胸のさざなみ
ああ なれど わが思いははかなく
うつし世の渚に果てぬ



【中古】さくら貝の歌 八洲秀章の生涯


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このサイトについて

このサイトでは数ある日本の民謡や童謡を取り上げています。
時代や流行にとらわれず、長きにわたって語り継がれそして
歌い継がれる曲こそが真の名曲なのかもしれません。
ジャンルにとらわれずいろいろ取り上げていきます。
歌詞を読み、聴いて覚える。
それが習得の秘訣かもしれません。




すずめの学校

炭坑節

鉄道唱歌 東海道その一

鉄道唱歌 東海道その二

こきりこ節

どじょうすくいで有名な安来節

月月火水木金金

芸者ワルツ

四季の雨

われは海の子

さくら貝の歌


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